1975年、大分県生まれ。中学1年生からバレーボールを始め、高校卒業後は小田急ジュノーに入部。新人王を獲得。全日本代表にも選出された。2006年に引退した後、バレーボールチーム事務局の総務を務め、現在はファイテン商品の代理店として、スポプロ活動などにも取り組んでいる。
森山 淳子さんのストーリーインタビュー
ファイテンを知ったのは18歳ぐらいのときです。練習している体育館に、ファイテンの方が来たのがきっかけでした。ですが当時はまだ若くて、ケガをしたこともなかったので、商品を使うということはなかったんですよ。
でもある日、急に高熱が出たときがあったんです。それでも監督からコートに立ってほしいと言われたんですが、カラダにチカラが入らないんですよね。スパイクを打っても全然チカラが入らない状態でした。
カラダが資本。選手を辞めた後も付き合っていかないといけないものなので、ケアには気を配ってきたそのときに監督が、ファイテンの水晶のネックレスをしているのが目に入ったんですよ。すがる思いでそれを借りたんですが、着けるとすごくカラダがラクになったような気がしたんです。「なんだこれは!」と驚きました。翌日も監督から借りて、着けて試合に臨みました。すごく衝撃的でしたね。自分のカラダにフィットしたので、その後は自分用を購入して愛用していました。
現役時代、特に引退する間際っていうのが、ずっとケガの連続でした。ケガをするたびに、その箇所のつくりとか、どんなリハビリやケアをしたらいいかっていうのを自分なりにもかなり勉強をしました。カラダが資本ですし、選手を辞めた後もこのカラダと付き合っていかなきゃいけない。なのでそういった部分では、自分でもいろいろとケアをしてきたと思いますね。
2006年に引退を決めた1番の理由は、ケガに負けたというところです。両ひざが、何をしてもいうことをきかない。ちょっと動いただけですぐ違和感が出る。その現実を受け入れたくなくて、悪あがきみたいなこともたくさんしたんですけど、最後の最後にはこれ以上痛い思いしたくないなというところに行き着きました。痛みってストレスにもなるので、そこも分かった上で、自分でケアしてきたつもりだったんです。でもケガには勝てず断念しました。決断しなきゃって思ったんです。
そして今は、ファイテンとお仕事で関わらせてもらっています。18歳のときに出会ったファイテンの方と、試合会場で偶然お会いしたのがきっかけでした。「ファイテンを使ってしてきたいろんな体験を、次に活かす気はないか?」と言われたんですよ。もともと競技を辞めた後もチームのマネージャーをしたいと思っていたので、その話をお受けすることにしました。引退直前、自分も痛みやストレスを抱えていたことで、その苦しさがどんなものなのかを分かっていました。だからファイテンのお仕事を通じて、
自分と同じように競技を続けながらもカラダの悩みを抱える人を手助けしたいと思って、ファイテンの仕事を始めることをすぐに決断した同じような経験をされている方の手助けができたらなと思って、「わかりました」と即答しましたね。
自分が順風満帆に選手としてコートに立てていたのは、やっぱり裏方さんたちのおかげというところがあったんです。それに当時はオリンピックも目指していたんですけど、結局出られなかったんですよね。そうしたところで自分の中にもう1人の自分がいて、1人の自分は「ここまでやったからいいんじゃない」って言っているんですけど、もう1人の自分は「まだやりきってないでしょ」っていう想いがありました。そうは言っても自分はもうプレーがもうできないので、どこで恩返しができるだろうと思ったときに、自分が裏方になることで頑張っている人を支えたいなと思ったんです。