1967年、静岡県生まれ。1990年にヤマハ発動機に入団。Jリーグ最優秀選手の他、得点王を2度、ベストイレブンを4度受賞。1998年・2002年には日本代表としてW杯に出場。98年大会では日本選手として史上初得点を挙げた。2015年からは、JFLアスルクラロ沼津とアマチュア契約を結ぶ。
中山 雅史さんのストーリーインタビュー
リハビリを始めてから数ヶ月、全く状況が良くならないままでした。その後、ドイツに渡り、治療とリハビリを開始したんです。その病院で貼ってくれたのが、ファイテンの丸いシール(パワーテープ)だったんですよ。日本にいた時から「ファイテン」という名前は知っていましたし、見たこともあったんですが、手にとって見るのは初めてでしたね。まさかドイツで日本製品が使われているとは思いもしなくて、誇らしく思ったことを覚えています。
リハビリ期間後には常にテーピングをしながらプレーしていたリハビリ中も、自分のチームの試合は見ていました。1サポーターとして、チームを応援しているという気持ちが大きかったですね。そしてなにより、グラウンドに戻りたいという思いがとにかく強かったんです。そのために「今、何をすべきか」を考えて、とにかく「自分のカラダをよくすること」に全神経を注いでいましたね。ドイツでの治療が一区切りついて、日本に戻ってからはコーチやトレーナーのサポートのもとトレーニングを開始しました。自分はそのサポートに身を投じて、しっかりとメニューをこなしていくという考えでした。その後のシーズンには開幕から出場できましたけど、数ヶ月休んでいた分、筋肉への負担が大きくて、常にテーピングをしながらプレーしていました。
ケガが多かったので、ケアに割く時間は意識して長くとっていましたね。いつも練習開始の1時間〜1時間半前にはクラブハウスに行って、カラダをほぐしてもらうことから始めていました。そして筋トレをやって、グラウンドに立って、練習後はアイシングをして、マッサージや治療を受けて帰っていたんです。不安のある部位をどうすれば強化できるのかと考えて、トレーナーとともに試行錯誤しながら、自分にフィットしたケアや治療を見つけてきました。
過去のケガの経験から、練習前後のケアには多くの時間を割いていた
ケガをすると何ヵ月かリハビリを行うことになるんですが、その期間をムダにしてはいけないと思っていましたね。「ケガをする前の自分より、強い自分を作っていきたい」「復帰する上で、より強いものに変えてグラウンドに戻れればいいな」という想いでしたね。リハビリ期間は単調なことが続くので、ポジティブに考えられないこともあったんですが、グラウンドに立つためにとにかくやるしかないと自分に投げかけていました。なので、出されたメニューもただ流すのではなく、このメニューで鍛えている箇所を意識するだけでも結果が変わることを感じていましたから、そこへ意識を集中させていました。
また30代半ばになると、回復が遅くなったり、ケガの治りが遅くなったりっていうのは当然感じ始めていましたから。明らかにダメだと感じる部分があれば、それを他の部分で補わなければいけないし、どこで勝負するのかを模索したりはしましたね。なかなか難しくはあるんですけどね。