1967年、静岡県生まれ。1990年にヤマハ発動機に入団。Jリーグ最優秀選手の他、得点王を2度、ベストイレブンを4度受賞。1998年・2002年には日本代表としてW杯に出場。98年大会では日本選手として史上初得点を挙げた。2015年からは、JFLアスルクラロ沼津とアマチュア契約を結ぶ。
中山 雅史さんのストーリーインタビュー
小学校の卒業アルバムに、プロサッカー選手になることを将来の夢として書いていたんですが、その当時は日本にプロサッカーチームはなかったんですよね。子供心に海外にいかなければその夢は実現できないという事実はわかっていましたし、実現させるのは難しいなと思っていました。中学生の時には、学校の先生になるのもいいなと思い始めて、大学では体育教師の免許も取得しました。
常に将来の姿を自ら思い描き、夢の実現に向けてやるべきことを考えてきたサッカーをずっと続けながらも、いろんな目標や夢、将来の姿を自分で思い描きながら「どうしたらいいかな?」ということを常に考えていましたね。ちょうど僕の若い頃は、サッカーのプロリーグができるという過渡期だったんです。そこで考えて考えて、最終的にサッカー選手としてのチャンスを目の前におかれた時に、ここでやらないのは自分にとって心残りになると思い、「勝負してみよう」と決めたんです。それでヤマハ発動機と契約しました。
その後Jリーグに参加するチームからの誘いもあったんですけど、「日本代表に入って、W杯予選、W杯に出場する夢を実現させるには、どのチームにいた方がいいのか」を突き詰めた上でヤマハに残ることを決めました。まわりの選手の特徴もわかっている、自分の特徴もわかってもらえているこのチームで活躍することが、日本代表への1番の近道だと思ったんです。
日本代表に入ることができましたが、初先発したアルゼンチン戦でたいした活躍もできなかったことで、そこからずっとサブになったんです。なんとか這い上がろうともがき続けましたね。今考えてみると、自分自身がレベルアップするための大事な期間であり、いい方向へのターニングポイントだったなと思います。それにW杯アジア地区最終予選のドーハでは点こそ取りましたが、もっと自分自身が質の高いプレーをして、チームのためにゴールを決められるシーンで決められていれば結果も違っていたなと思うんです。そう考えると、1試合1試合が自分の人生においてのターニングポイントになっているのかもしれないですね。
この大会は予選で敗退したんですが、その現実を突きつけられたのはその翌年のことでした。もちろん予選の最後のシーンは本当にショックで悔しかったんです。でもそれ以上に衝撃を受けたのが、翌年のW杯が始まったときでした。「日本がW杯でプレーできていない」ということに、敗退という現実を突きつけられた気がしましたね。
1試合1試合が自分を成長させる人生のターニングポイントになっているかもしれないと語る
また僕自身は、ドーハから帰った後、いよいよJリーグに参戦するという時に、ケガで長期離脱することになったんです。チーム練習が始まって1週目からカラダに違和感を感じていたんですが、どんどんひどくなっていき、練習にも参加できなくなってきたんですよ。これ以上無理したらサッカーができなくなると感じるようになりました。足も上がらなくなってきて、ここで少し区切りつけるしかないと思いリハビリに入ることを決断しました。